生活
台湾のzineのフェアZINE DAY TAIWAN
に備えて中国語の冊子をゼロックス造り(コピー機で自分で両面印刷してホチキスで製本するやり方)で作ってたんだけど。版組みして印刷した紙を綴じるために、紙の束に金属定規を当ててカッターでまっすぐどんどん切っていくんです。不思議とこれやってるときが一番自分の人生を生きている実感がある。
あるていど丁寧にやれば50枚をまっすぐきれいに切り揃えることは簡単だし、そこまで力もいらない。だけどこれを定期的にやる生活を、もう22年やってて、この作業に入ると必ず「改めて、この儀式に何度も帰ってくるんだな」
と感じる。印刷業者に頼んだりするのと違って、手作り冊子は細かい機動力が発揮できる。衝動を短いステップで物質化できるし、1部だけ友達に見せるために作ったりできる。
その全行程を誰にも秘密に関係なく遂行でき、迅速に物質化し、人に何かを感じさせることができる
という行為が自分にとても合っていて、好きなんだろう。出版行為というのは、本来とてもテロ的、通り魔的だ。作者の時間を圧縮し、アーカイブ的に紙面に思考を詰める。それを人が知らない間にたくさん刷り、いっせいに配る。思考が瞬間的に伝播していく危なさがある。それもあって、独裁的な体制ほど歴史の中で繰り返し禁書・焚書をやり、出版免許をやり、検閲をやった。マックスウェーバー(マックス・ヴェーバー)っぽい意味の「暴力」、公権力みたいなものと拮抗しうるからだ。
大きな部数を刷る出版をいくらやってても、それに適さない発想は絶えず出てくるし、実行価値を感じる。これはまだ人類には早いかな?
とか、自分がまだ不慣れな領域のことをやろうとする時、また、短期的な目標を素早く達成する時がある時には、今後もずっとゼロックス造りに頼ることになると思うし、ゼロックス造りに頼るそんな時こそ、自分が自分を拡張できているときで、だからこそこの作業に愛着があるのかもしれない。
いまだに僕は「ゼロックス」という言葉がしっくり来る(昔の人はコピーのことをゼロックスと言ってた。ステープラーのことを全部ホッチキスって呼んだり、検索行為すべてをググるって言うのと同じ感じ)。ゼロックスの機種はいまだに他社よりも「単に書類の複写を取る」事務的能力を超えた部分の性能が高いと思う。僕は昔、他社の機種機構に少し関わっていたことがあるけど、余白取り、画素、トナー性能、ワックスの感じ、ゼロックスはすべてが良い。自分がゼロックスを使うというより、このゼロックスの複合機に自分が動かされているんだなと思うよ。
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